ROUND THE WORLD

クメール・ルージュ(カンボジア共産党)

僕が始めてクメール・ルージュ(カンボジア共産党)について知ったのはルワンダでした。

ルワンダ大虐殺の記録を残すメモリアル館に行った時、

世界の虐殺についての展示パネルがあり、

そこで始めてカンボジアで大虐殺が起きていたことを知りました。

同じアジアで起きたことを知らなかったことを恥ずかしく思い、

カンボジアでは必ずこのことを知って帰らなければいけないと思っていました。


そして今日カンボジアの首都プノンペンに到着してすぐ

S21(トゥール・スレン)に行ってきました。

S21は政治犯収容所の暗号名であり、現在は地名をとってトゥール・スレンと呼ばれています。

そして今は国立のトゥール・スレン虐殺博物館となっています。


この施設、もともとは学校でしたが、

クメール・ルージュ政権下では学問は不要という方針をとっていたため、

廃校となっていた学校を反革命分子を探しだす施設に転用していたそうです。

ここでは2年9ヵ月間に1万4千人から2万人が収容されていたと言われ、

そのうち生還できたのはたった8人だけだったそうです。


そもそもなぜそんなクメール・ルージュが政権を取れたのか。

これにはベトナム戦争が大きく関わってきます。

1949年フランスから独立を承認されたカンボジアは、

フランス領インドシナからシハヌーク国王支配によるカンボジア王国となりました。

しかし王政に反対する国内派閥の抗争があり国内は不安定な状態でした。


1965年、アメリカが北ベトナムに空爆を始めると、

シハヌーク国王は対米断交を行うとともに

カンボジア国内には北ベトナムの補給基地や物資支援ルートがあり、

実質的に北ベトナムを支援していました。

アメリカはそんなカンボジアに親米的な政権を作る必要があったため

将軍ロン・ノルを支援します。

そしてクーデターを成功させたロン・ノルは王政を廃止し、

親米政権のクメール共和国を樹立しました。

そして首相となったロン・ノルの黙認のもとアメリカと南ベトナム軍は

ソ連と中国からの物資支援ルールの遮断の目的でカンボジアに侵攻します。

この時投下された爆弾の量はアメリカが第2次世界大戦中に

日本に投下した総量の3倍にものぼり、

数10万人の農民が犠牲になったと言われているそうです。

また爆撃から1年半の間に200万人の国内難民がうまれ、

農民は都市部に溢れかえりカンボジアはさらなる混乱期に入ることになります。

またこの時農業インフラは壊滅的に破壊され、

1969年には耕作面積239万ヘクタールを有し23万トンのコメを「輸出」していたが、

1974年には耕作面積5万ヘクタールとなり28万2000トンのコメを「輸入」

しなければならなくなったそうです。

そんな状況にあったため反ロン・ノル勢力であるクメール・ルージュ(カンボジア共産党)は

徐々に力をつけていくことになりました。


アメリカがベトナム戦争の撤退を行うと、

後ろ盾を失った政府軍は中国の支援を受けていたクメール・ルージュに敗れ、

クメール・ルージュは1976年1月に新憲法を公布し、民主カンブチアと改称しました。


クメール・ルージュが首都プノンペンを陥落させた時、

多くの国民が喜びの声をあげたそうです。

しかしその喜びも長くは続かず、

クメール・ルージュは食糧増産を図るためプノンペンなどの大都市住民、資本家、

技術者、知識階級から一切の財産や身分をはく奪し、

「都市住民の糧は都市住民自身に耕作させる」という視点から

農村に強制移住させ、農業に従事させます。

学校、病院などを閉鎖し、貨幣を廃止し、宗教までも禁止しました。

クメール・ルージュはこれを「階級が消滅した完全な共産主義社会の建設」と称したそうです。


また農村に強制移住させられた知識階級は反乱を起こす可能性がある危険分子として、

医者、学者、教師、技術者などほとんどが殺害されました。

また娯楽は必要ないと歌手や俳優&女優なども殺されたそうです。

クメール・ルージュ内であっても反乱の可能性が疑われれば家族ともども殺されたそうです。

革命が成功したことを知り国の発展のためにと帰国した資本家や留学生も殺されました。

子どもは幼いころから親から引き離し集団生活させ、

幼いうちから農村や工場、また軍人や収容所の看守として働かされたそうです。


しかしそのような非現実・非科学的な政策はカンボジアに一層深刻な食糧危機を

もたらすことになってしまいました。

ここで党中央は「飢餓が進むのは誰か反革命分子が居るからに違いないという」

おかしな考えにいたり、

虐殺はさらにひどくなっていくことになります。

クメール・ルージュのために働く兵士や看守さえも、

いつ自分が疑われ、殺されるのかを恐れ毎日生活しなければいけなかったそうです。

またクメール・ルージュはその兵士や看守にしばしば子どもたちを選びました。

信用できない大人ではなく、裏切らないだろう子どもにという考えだったのでしょう、

そのためたくさんの子どもが虐殺に関わったとされています。


最終的にクメール・ルージュはベトナムの侵攻により、

タイ国境近く(西)へと追いやられ、大虐殺の幕は下りました。


このクメール・ルージュの統治で何万人の人が亡くなったかは、

各機関それぞれ異なった数字を出しているのですが、

例えばCIAは5万人~10万人(飢餓による死者は含まない)、

クメール・ルージュの後に政権をとったヘン・サムリン政権は330万人、

アメリカ国務省、アムネスティ・インターナショナル、

イェール大学のカンボジア大量虐殺プロジェクトの3者はそれぞれ

120万人、140万人、170万人と推計しているそうです。

しかしカンボジアでは1962年以来国勢調査を行っていないらしく、

正確な死者はわかっておらず、推計にも開きがあるようです。


今日はトゥール・スレン虐殺博物館だけにしか行けませんでしたが、

明日はキリングフィールド(Killing Field)に行く予定です。

その名の通りクメール・ルージュが大量虐殺を行った場所です。

実はそのような場所がカンボジアにはたくさんあるのです。
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by world_journey | 2010-10-18 12:00 | 43.カンボジア編
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