小高い山に取り巻かれているボニスナ・ヘルツェゴヴィナの首都、
サラエヴォはその地形ゆえに戦争中大きな被害を受けることになる。
12,000人が死亡し、50,000人が負傷したと推定されており、
そのうちの85%が市民だった。
サラエヴォ入りして僕が最初に向かったのは、
サラエヴォ・トンネル。
街を完全に包囲されて、地区の孤島と化してしまったため、
食料などの物資を調達することが困難だったサラエヴォ市民を救ったのが
このトンネルだと言われているそうです。
このトンネルは国際連合がその当時管理していたサラエヴォ空港の下を通り、
武器&戦闘が禁止されていた別の街につながっていたそうです。
全長約800m、高さ1.6m、幅1mのトンネルを約4カ月かけて、
市民とボスニア政府軍で掘ったそうです。
博物館は国ではなく民間人が管理&運営しているのだけど、
こんなに重要だったトンネルを
(個人的には)なぜ国が保存&管理しないのかちょっと疑問でした。
戦争の悲惨さをいつまでも後世に伝えるためにも、
きちんとした保全&管理して欲しいなーと思います。
またサラエヴォには『スナイパーストリート』なる名前がつけられた道があります。
名前の通り戦争中にスナイパーがその通りを通る人を
狙撃&殺害していたためそのような名前がついたそうです。
この通りにはその当時ジャーナリストが滞在していたというHoliday Inがあり、
ここもかなりの銃撃のあとが残されていました。
サラエヴォでは1984年、冬季オリンピックが開催されました。
もちろん僕はその当時、2歳なのでまったく記憶にありませんが、
そういうオリンピック中に建てられた施設も例外なく大きな被害を受けました。
スケートリンク場があった会場の近くに予備のグラウンドが設けられていたのですが、
戦争中、遺体を埋める場所がなかったため、
たくさんの遺体がここのグランドに埋葬されました。
お墓の周りをぐるりと歩くと、
全て1994年&1995年に死亡となっていることに気づきます。
モスタル同様、サラエヴォでも全ての建物に銃撃のあとが残されていました。
その銃痕を見るたびに、ここでの戦闘の激しさが目に浮かび、
心が締め付けられる思いがしました。
日本は第二次世界大戦を経験し、
戦争について学ぶべきことはたくさんあったはずなのに、
旅に出るまでは戦争というものをあまり理解していなかったような気がします。
どこか遠い昔のことで、遠い世界のことのように感じていました。
今こうやって世界を旅してみて、
戦争に悲惨さ、恐ろしさを痛いほど感じます。